昭和44年04月11日 朝の御理解



 御理解 第99節
  「無学で人が助からぬという事はない。学問はあっても、真がなければ、人は助からぬ。学者が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此の方は無学でも、みなおかげを受けておる。」

 御理解99節、この今日私99節と云う事と真がなければ、人は助からぬという、そう言う所に、まあ焦点を置いてお話を聞いて頂きたいと思う。いかにもこう学問があると助かりにくいとか、学問が邪魔になると言った様な風な感じに、この99節は、受けられる所ですね。教祖様が、御自身無学の百姓と仰っておられるが自分は無学でも人が助かっておると。だから学問があってそしてその上に、真があれば尚鬼に金棒と云う訳になるですね。そこで事私は、今日思うのですけれどもね。
 真がなければ人は助からぬと。学問学問があれば、人が助からぬと云う事ではなくて、学問があっても、言わばなくても、真があれば助かるのです。だからここではひとつその、学問があるとか無いとかと云う事と、まあ切り離して考えなきゃならんと思うね。そこで、真がなければ、人は助からんと仰る、真と言うのは、どういう真であろうか。是は学問があっても学問がなくても、真があれば助かるのだ。
 この私99節と言うね、まあ苦に苦が重なるという不和な時が御座いますね。信心させて頂いておりましても、大体神様はどげん思うて御座るとじゃろうか。大体神様は自分如きに働いて下さっとるのじゃろうかと。そう言う様な思い方は、もう信心が止まっておると仰るけれども、矢張り実感としてですね。「これほど信心するのにどうしてこの様な事が」と言った様な事がある。そう言う様な時を私は苦重苦と思うんです。
 苦に苦が重なる。泣きっ面に蜂と言った様な時なんです。どうでもだからここにもう一つ足さなければ100節というか、100と云う事にならない。99では矢張りキュウキュウ言うとらんならん。御理解100節にも御座います。めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないかと。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと。そういうめでためでたと言う様なおかげ。
 そういうおかげの頂ける道を教祖は教えられるのだ。そういう道を習わせて頂きながら、99になって来るというのはどう云う事か。矢張り100節への過程だと私は思うんです。100節になる為の道すがらなんです。なら例えば98から一遍に100になる訳にはいかんのである。やっぱり100節を通る為に100節の、このめでためでたと言う様なおかげを頂く為には、99からもう一つの信心が必要なのだ。
 そのもう一つの信心が必要なのにも係らず、私共はですどうしてこの様な事が起こって来るであろうかとか、苦に苦が重なる様な事が起こって来ると、是は実感としてです。神様は大体、自分を助けようと思いよざるとじゃろうか。殺そうと思いござるとじゃなかじゃろうかと言った様な言わば暗たんたる、その思いをしなければならない所をね、言うなら真を持って受けて行かなければですならん。
 その一つ残されておると言うのは、もう真なんです。様々な信心がある。様々な修行がある。一生懸命お参りをする、それにも係らず、泣き面に蜂と言った様な事も起こって来るけれども、だんだんそこんところをです、いわゆる真がなければと仰る、そこんところに、真を打ち出して行かなきゃいけんのである。じゃないと苦重苦が100にならんのである。その真をもうひとつ、そこん時に加えなければ。ね。
 だからそこんところは、そら元気な心だけでは抜け切れない所なんです。ガムシャラだけでは受け切らない所である。これは信心が足らぬからじゃと一心と信心を続けて行けばそこからおかげが受けられると仰るその一心とはどう言う様な事。後に残されておる、99にもう一つ足しゃぁ100になる。100になれば、御理解100節のめでためでたと言う様なおかげの頂けれるような基(もとい)がそこに出来る。
 その一つとはどう云う事かと言うところを今日はね、あの一つ頂かにゃいけんとこじゃないか、とこう思う。だから今日99節の、言わば解釈と言った様な物ではなくてです、私はむしろこの99という所を99節と言うところは、もう一つこれに足さなければ100節にはならん。めでためでたにはならんと言うところを、今日の御理解として頂いて頂きたいと思うのです。
 ところが、お互いがですほんとに、泣き面に蜂と言った様な事が起こって来ると、ほんとに神様を恨みたい様な心、是はもう信心しても同じ事と。もう神も仏もあるもんかといった、暗たんたるその気持ち。その時こそが、今99節を、99の所を通っておると分からして貰うて、是にもう一つの真を添える事によって、100節になられるのですから。めでためでたと云う事になるのですから。
 金光大神はその後の、言うならばその1節の所を金光大神は、教えておられるのだ、と云う事が言えるのです。御理解100節と、この御理解、このここんところのおかげを頂く為に、全ての御教えがあると言う人すらがあるくらいですから人間の幸せは、このめでたいめでたい毎日がめでたい、毎日が有難いというおかげを受ける事なんです。しかも子孫繁盛家繁盛していきながら、愈々有難くなっていけれる、そういうおかげを私どもの上に、願うておられる。
 成程ここになって来る時にですね、あの学問はあってもなかっても、後の1節と言う所は、学問があってもなかっても受けられる所だ、と云う事が分かります。99節まではね、矢張り学問があった方が分かりやすいんです本当は。例え今のまあ言葉で言うならばね、まあ教祖はお使いになっておられないけれども、いわゆる真実、本当の事と言った様な事を、本当のと仰るね。
 それでまあ結局まあ天地にあるひとつの掟と言うかね法則と言うか。又は天地の道理と教祖が仰っておられるそれをまあ真理とこう本当の事。その本当の事を追求する為にはです、矢張り学問があった方が、合点が行く分かり方が出来るんです。心理の追求と言った様な事又は天地の道理と言った様な、いわゆる天地の事訳それを法則と言う。その天地の法則などもです矢張り学問があれば有る程はっきり分かる。
 分かる事は。唯、学問がないと、そんな法則とか真理とかと言わんなりにです、その分からんなりにと言うかね。唯素直心の素直心をもって信心を進めて99節までたどって行くのである。学問があると、そこが分かって99節までの所を通って行く。99のとこを通って行くのである。だからおかげをいわゆるめでためでたのと言った様なおかげを頂くのは、もうそれから先は学問はいらんのである真一つなんだ。
 そういう所をです、そのなら真とはどう言う様な事かと。私はこの真と言うのは、様々に頂いても参りました、皆さんにも聞いても貰ましたが。私はここんところのですね、この99と、苦に苦が重なると言った様な時にですね、私共はもういよいよ、しみじみと自分というものをいよいよ見極める、と云う事だと思うんです。そこからいわゆる本当の自分というのが分かるんです。
 後の1節と言うのはそういう事だと思うんです。神も仏も御座らんのじゃろうかと言うのではなくてです、いよいよ自分というものを本気に極めるという、そのだからここは、元気な心でガムシャラにそこを推し通って行くというのじゃない。あとの一つと言うのは。言うならば自分というものを、いよいよ完成の域に持って行く為の一つである。完成と言うても、人間の事ですからね。あの完全無欠とかと言った様な事出来ませんけれども、言うなら自分の総仕上げなんです、ここはあとの一つというのは。
 神様はこの様に痛い思いをさせてからでも、神様は、この様な苦しい思いをさしてからでも、あとの一つを分からせて下さろうとしておるんだと。そのあとの一つはもうガムシャラに、唯、神様に拝みさえすりゃいい、参りさえすりゃいいと云う事では通られん。あとの一つは、いよいよ自分というものを、いわゆる本当の自分の姿というものをです、見極めると云う事。
 見極める所からです、それも又当然こういう痛い思いをしなければならんのも当たり前と一様な事に、是はみんなその中じゃある、とこう思うです、言うならば働けど働けど、わが心は楽にならざり、じっと手を見るという。働けど働けど、わが心は楽にならざりもうそれこそじっとです。自分の心を本気に見詰ると云う事なのです。ですからここんところはですね、もう実に何と言うでしょうかね。
 もう本当にもう言わば這いも立ちも出来んごと、例えば痛め付けられて居ると言った様な時にです、そこん所に気付かせて頂くとです、もう今まで気が付かなかった所。今まで分からなかった事。これ程御教えを頂きながらどうしてこういう大事な所が分かっていなかったであろうか、と言う様な所。じっと自分の心を見極め様とする所からですはあ是だった。是に取り組むんだ」という信心が生まれて来る。
 それが私は99にあとの一つを加えるものはそれだ。そこから私は、めでためでたのというような、又は枝も栄える葉も茂ると言う様な、又は家繁盛子孫繁盛の道と仰る、そういう道の基と言った様な物をそこから頂く事が出来る。そこから私は100節というかね99を一つ乗り越えるというのは、そこだと。ぎりぎりの自分というものを、ぎりぎりに極めさして貰う。
 その先にです私は我無力な」と言った様なものが生まれて来るんです。神様どうにも出来ない私だという無条件降伏ですね、所謂ぎりぎりの自分というものを見極めてこれでは神様がおかげを下さるはずはないと。けれども出来ないのである自分じゃどうにもで気ない。神様に身も心も投げ込んで行くより他にないのだ。障子一重がままならぬ人の身と言った様な事をですね、本当にそこんところを辿る事通る事だとこう思う。
 もう本当に無力なる私である。いわゆる無条件にあなた任せになる他にはない。あなたが右向けと仰りゃ右を向きましょう。左向けと仰りゃ左向きましょうと。そこから神様のね、自由な働きがお出来になる様になるのです。もうそれはそれは、本当に悲しいまでに有難い事に成って来るんですね。そこから本当の神様にお任せする、委ねる心と言うのは、そこからしか生まれて来ないのじゃないか、とこう思う。
 今日はそれを私は真だとこう申しました。真実人間のですねその無力と云う事、その事に到達するという、その事が分かると云う事。そこを矢張り99通ってみて始めてです、分かるのです。そのあとの一つをなんであったかというと、いよいよ本当な事が分かった。それは私には何にも、私はもういわゆる無力である私である、と云う事を極めた。自分の是が実際の姿であり、実相なんだ。
 そこから神様に委ねる、いよいよ心。任せる心っていうものが生まれて来る。そこから、神様が氏子を自由に扱うて下される。自由に使うて下されるものが生まれて来る。どんなに一生懸命あそこまで、例えば百里の道なら百里の道を一生懸命走れとおっしゃるから、ようやくその言わば、百里の道に到達しようとする、一生懸命にそこに行きゃおかげを受けられるとおっしゃる。
 そう思うて一生懸命、ほんなもうすぐ百里に届く、届こうとしよる所へ、神様が回れ右とこう仰られりゃですね、もうほんとに回れ右に、なれれる心なんです。ここまでも、九十九里までも歩かせて頂いてから、もうあと一里になってから、放からかすなんてちゅうのじゃなくてですね、その点もう素直に回れ右をさして貰って、どちらにでも、是からは、神様の仰せられるままに動かして貰おうという心である。
 ここん所がですね実に矢張り難しいです。一生懸命99まで頑張って来ておるでしょうが。それに例えば手のひらを返す様に、神様がその言うて下さる時ですね、何の為の99であったであろうかと思いにありますけれども。そういう抜けた素直さと言うか。そこから100節と言うか。その99にもう一つ添えなければ100にはならんという、もう一つと言うのはそう云う事だと。
 それは真だと真とは本当の自分の姿が分かる事だと。これはもう本当の真だと真実なんだ。んなら分かったことはどう云うことかと言うと我無力と云うことなんだ。そこから私は金光大神の教えて下さるめでためでたのという、子孫繁盛家繁盛と言った様な道は、そこからしか開けて来ないと言う風に思います。今日、99節をそのようなふうに、無学でも人が助かると。学問があっても、学問が身を食うて。
 学問があっても難儀をしておる人があると仰るが、ここんところは学問と只学問がないと云う事を対立して考えるというのではなくてですね。私は学問があれば尚更有難いんだと。それは99まで通るとに通りいいんだと矢張り。勉強した人は理屈の上では分かるんだと。分かるけれどもあとの一つはもう学問でもなからなければ、無学であると云う事でもないと云う事。それは本当の事を分かると云う事。本当の事のその一つというのが、自分を極める自分を分かると。自分の実相に触れると云う事。
 そこから私は神様が氏子を自由にして下さるというおかげ。それはどう云う事かと言うと、天地が自由になって下さると言う程しのおかげに繋がるのです。神様が私どもを自由に扱うて下される様になったら今度は私共に、天地が自由になって下さると言う様なおかげ。氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますからと。私は三代様からその様な御教えを頂いております。私共が神様任せならというと言う所は99節を通り抜いた者のでなからなければ。
 本当の神様任せと言った様な事は、出来んのじゃなかろうかとすら私は思います。その向こうに、神様が氏子任せになって下さる世界がある。天地が自由になって下さる様な世界がある。それを徳の世界。徳の世界に入らなければ、めでたいめでたいと言った様な事、毎日送れる筈がない。その徳が子孫にも残って行くから、いよいよ家繁盛子孫繁盛のおかげになってくる。そう言う所を、私は99節又は100節から頂かなければならんと思うのです。
   どうぞ。